アライグマは電気鼠の映画を観るか?
行き帰りの電車はもっぱら寝て過ごすか、曲を作るかしている。
大学は高校までと違って中間が週にひと科目ずつやってくるので幾分か気が楽だ。
今日の与太話。
アライさんなりすましアカウントというものがある。元ネタは「けものフレンズプロジェクト」に登場するアライグマのキャラクターだ。
「けものフレンズ」は擬人化された動物たちが繰り広げる日常を描いたアニメ作品だ。潤沢とは言えない予算ながらにして、平和と不穏さが同居するその独特の世界観や緻密に組み立てられたストーリーがヲタクたちのハートをつかみ、シーズン覇権の名を我がものにした。
最近ではシーズン2とその監督が炎上したことでも記憶に新しい。
アニメ「けものフレンズ」におけるアライさんは前向きさと明るさがウリのキャラクターだ。
他の動物たちと比較しても物語の中核に関わってくるキャラクターで、アニメ1期では他の動物たちが主人公の旅の先々で協力して課題を解決するような描かれ方をしていたのに対し、アライさんとその友人のフェネックのみ主人公との直接の関わりは物語終盤まで無く、その足跡をを辿る様子が毎話Cパートで描かれていた。
アライさんなりすましアカウントとは、日々の理不尽や社会の暗い一面に触れた人々がTwitter上でアライさんになりすましたものだ。
その特徴的な口癖「〜なのだ!」に乗せて届けられるユーモアに満ちた病みツイートや、驚くほど専門性の高い知識を有するアライさんの登場によってヲタクたちの間で話題を呼び、今日Twitterでは有象無象のアライさんたちが日々しのぎを削っている(?)。
ところでこれは余談だが、アライさんなりすまし界隈でのフェネックの位置づけは多種多様で、私はフェネックのストーリーの方を面白がって見ていることもある。
原作どおりシンプルな「友人」の言い換えから、苦手な上司、ブラック企業でともに闘っている同僚、数日前に別れた恋人まで。フェネックは時にアライさんよりも壮絶な物語を背負っている。
さて、アライさんなりすましアカウントが何故ここまでバズったのか。
「個人に紐付けされたアカウントを通しては発信できないようなエピソードを抱えた人々が一定数存在する」「アライさんというキャラクターの口調を真似る事によって、自身に起こった出来事を客体化し、他人事のように語ることができる」
等々様々な考察がなされてきたが、私が最も面白いと思った考察がこれだ。
生き辛い人がアライさん構文によってインターネットにゆるい自助会を形成している現象、なんJ民が猛虎弁の使用によって闇の深い話を草と共に開陳できる空間を作っていった結果、「これもう実質メンタルヘルス板だろ…」と自称されるまでに至った現象と共通するものがある
— 凹凸ちゃんねる (@hattatu_matome) 2019年4月29日
日常生活において、スラング等のネットミームにまみれた会話に辟易することも多いと思う。特に最近ではテレビでも取り上げられる流行語にもその片鱗が見え隠れし(それがJK由来のものだと紹介されていることもままあるので、とても面白い)、若者を中心に現実にまでもいわゆる『構文』が侵食してきてきつつある。
ところが、そんな『構文』を『個人のキャラ』というものをぼやかすひとつの自衛の手段だと捉えると、今回のアライさんなりすまし騒動にもぼんやりとひとつの解答が見えてくる。
直接顔を突き合わせないインターネット上の会話にどうしても伴ってこない、ノンバーバルなコミュニケーション。
偏見を多分に含むが、現実でさえ空気を読む会話ということが苦手な人々が、究極に言語的な空間で最終的に形成したカルチャーが『構文』だとすれば、それは非常に理にかなっている。
つまり、『お約束の構文』に則ってさえいれば、最低限文体の差異を削ぎ落とすとともに、『僕/私はその場の空気に乗れている』という不思議な結束感を生じさせることができ、匿名性とその場の一体感を同時に得ることができるのである。
アライさんなりすましアカウント同士が互いに語り合い励まし合って、ゆるやかな互助の界隈を形成している様子を見かけることがよくある。
それぞれに似通ったアニメアイコンを通して「なのだ!」「のだ!」とふれあう彼らを見てネットミームの本質に触れることになろうとは思いもよらなかったが、そういう面白さを抜きにしても、彼らは往々にして充分に魅力的な人間性(アライグマ性?)を持っている。そうした人々(?)が出会い、手軽にコミュニケーションを取れる環境が整いつつあるのを喜ぶべきか、社会の落とした影にのまれ、もがき苦しみながら生きる彼らを憂うべきか。
いずれにせよ、私にできるのは静観の一手である。
今後もアライさん界隈をのんびりと見守っていきたい。
さて。
元々二個目のブログは何でブログを始めたのかについて掘り下げる予定だったが、最近また色々と情報を漁っていたところ、どうも自分の説明が微妙にズレているように思えてきたので、その話題はもう少し寝かせようと思う。
次回のブログには今のところ、世界的に音楽シーンを見渡したときの邦ロックの異質さについての話を持ってこようと思っている。
いかんせん作曲に中間対策に読書にと優先度の高いタスクに追われている上に、バイトが思うように入れられなかった影響でCD制作のスケジュールのほうもいくらか修正を加えねばならない。当面は放置することになりそうなので、ここでことわらせていただく。
ごめんなさいなのだ!許してほしいのだフェネック!
それでは。